404 Blog Not Found:赤木智弘たちに足りないもの - 書評 - 若者を見殺しにする国
これも1975年生まれか...ワーキングプア
笑うことではなく、嗤うことにはまってしまったからだ。著者はWebを、「自らが笑う」場ではなく「他者を嗤う」場所として活用してしまったのだ。右を嗤い、左を嗤い....しかし嗤いは金にならない。そうこうしているうちに著者の20代は終わり、その終わりとともに嗤う余裕も失われた、というのが著者のあらすじであると私は読んだ。
自分が大学生の頃の状況から、一歩間違えれば、
こんな方向にも進みかねない雰囲気があったのはなんとなくわかる気がする。
個性の尊重とか自由とかについての曲がった信念を拠り所に、
回りの物事を「嗤い」、自分自身ですら「嗤い」の対象にする事さえありえた。
それでも、私は大学卒業後は就職して「サラリーマン」になる事を選択した。
個性の尊重などとは対極に置いて考えがちな事だが、
私の場合はやはり何よりも「お金を稼ぎたい」と思ったからだった。
例えば、起業して成功して金持ちになる、みたいな大きな話ではなくて、
学生時代にバイトだけでヤリクリしていた状況では、
日常的な些細な事でもお金の事を考えて、諦めなければいけない事が多々あり、
そんな状況からは早く抜け出したいと思った。
自分が経験した事もない「サラリーマン」を「嗤う」のではなくて、
そういう世界に飛び込めば、まずお金はある程度稼げるはず、
そんな中で、お金を稼ぎながらもやっていて楽しい事を見つけて行けばいいと思った。
当時は就職氷河期で、確かに厳しかったのも事実だろうが、
だからこそ「笑い」のない面接を経て内定をもらう事はなかったように思う。
オプティミズムをベースにして、自らの力で未来をより良くしていこうという意識が、
自然と「笑い」を、「笑顔」を表出させる。
それってきっと今でも基本的には変わらないのだろうと思う。
もちろん、就職に限った話ではないよ。
また、「笑い」さえあればいいという話でもない。
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