2007年11月26日月曜日

「ウェブ時代をゆく」の感想1

先日のブログでメモしておいた梅田氏の新刊「ウェブ時代をゆく」ですが、
実はあの後の週末に近所の本屋で買って、ほぼ1日で一通り読んでしまいました。
今でもランダムに掻い摘んで読み返しています。

中々感想を書けずにいたのですが、1回の投稿で書ききれるものでもないので、
少しだけでも言葉になる部分は書いていこうかと思いました。

一番引っかかったのは『第三章 「高速道路」と「けものみち」』の中で
梅田氏自身の経験について語った以下の一説。


 しかしあるとき、同じように高速道路を走っている自分の周囲の人たちを見渡してみて、
「対象」(プログラミング)への愛情という面で、私は決定的に何かを書いていることに気
づいた。「没頭の度合い」がどうにも中途半端なのである。関心がさまざまな分野へと分
散し、一つの専門に集中し没頭することができない自分を発見し、このままこの高速道路
を走り続けても、どこにもたどりつけないのではないかと確信した瞬間があった。
 その時点で私が「大渋滞」までたどりついていたのかどうかはわからない。ただ、
それなりに自分の限界までははしってみたつもりだった当時の私は、むろん高速道路の比喩
などなかったのでそういう言い方はしなかったけれど、高速道路を降りて「けものみち」
を歩くことにした。そちらのほうが、自分の総合性のようなものが活かせるのではないか
と感じたからだった。



ここには全く私自身の性質に重なるものを感じてしまったのでした。

その時々で様々なものに没頭することでそれなりに身に付けることはできるが、
どれも中途半端に思える自分に重なる。うすうすは感じていたことだが、
あらためて言語化されたものを突きつけられたという感じです。

高校生の時はとにかく音楽(ギター)に熱中していた。
当時なりの「高速道路」的なものを走っていたかどうかも疑問だが、
有り余る暇な時間の多くをギターの練習に使っていた。
ギターの巧さは大学4年生の頃がピークだったと思うが、
プロを目指せるほどのレベルかというと、いろいろと足りなかったと思う。

大学に入った時は、専門とすることになった英語に関して、
同級生達と比較して自分の英語力のなさを痛感し、授業についていけなくなることを恐れて、
最初の1年はひたすら英語を勉強していた。
それでなんとか授業にはついていけるようにはなったし、
大学での成績だけを見れば結構いい方かもしれない。
何より、世間的には英語ができる方には位置付けられるレベルにはなっていると思う。
ただ、今でも大学の同級生達の英語力に比べたらひどいものだろう。

就職してからは、プログラミングとかITに関する技術・知識である。
文系出身という引け目も感じていた事もあり、いろいろと勉強しました。
専門雑誌などにも目を通して情報収集していたわけですが、
雑誌に掲載されるような技術・知識を実際に現場で使える機会が
それほどあるわけでもなく、悶々とした日々が続いていた時期もあった。

仕事としてやっているのだから、ある程度詳しいのは当たり前なのだが、
実際の仕事の現場において、同じ仕事をしている人の中においても、
やっぱりそれなりに「モノを知っている」専門的な立場に立つことはできているとは思う。
でも、本当にそれが世間一般的に考えて凄いレベルかというとやはり疑問である。
100人に1人くらいはいそうなレベルなのだと思う。

そのほかにも、昨年までの何年かは競馬にはまっていて、
大量のデータを処理する為のプログラミングの知識も活用しながら、
未勝利戦の馬券も買うくらいになってた時期もあった。
最近はじめた株式投資については、いろいろとこのブログで書いたりもしてますが、
何冊か本を読んでみて、自分に何が必要かはなんとなくわかった気がしてしまうのです。

興味を持ったことに没頭して、何でもある程度のレベルまでは
器用に吸収することはできるけれども、
何かこう、突き抜けていくことができない自分を感じてしまうのです。

ただ、自分を活かしていく道が「総合性」なのかどうかは答えが出ていない。
「けものみち」を行くためには、その道の専門家としてはもっとすごい人がたくさんいる事を
自覚しながらも、他の人に対してはある程度「専門家面」して行く必要があるのではないか?
そういう感覚があるから「総合性」というシンプル過ぎる表現がしっくり来ないのかもしれない。
もちろん、「純粋に」専門家というよりは、自分が身に付けて来た複数の要素を組み合わせて、
自分にしか生み出せないと思わせる価値を確立し提供していくのが実際なのだろう。

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