こう見ると、2つの記事で「勉強」に関する話が矛盾している気もする。
404 Blog Not Found:勉強が出来る=何がいい?
勉強って、ほとんど頭使わないよね。
人様に言われたことを、やればいいんだから。
404 Blog Not Found:それって勉強じゃないよ
なぜ彼らが十分な評価を受けていないか。
勉強が足りなかったからだ。
「もっと評価されてよい」?これほど勉強不足な台詞は他にはない。
もっと評価されたかったら、もっと勉強するしかない。
その能力が相手にとってどんな価値を持つのか、相手にわかるよう説明していくしかない。
それこそが、勉強。
なぜかと言うと、「勉強」が後者の記事のようなものであるとすれば、その為に「ほとんど頭を使わない」なんてありえない。むしろ、学習や研究よりも、よほど頭を使わなければできないことだと思うから。
まあ矛盾というよりは、同じ「勉強」という言葉を使いながらも実はその言わんとするもののターゲットが違っているということだろうし、それは着想に基づく効果の為にあえてそうしているのかもしれないけど。
「勉強」とか「学習」とか「研究」とかの言葉の使い分けにはあまり興味はない。
特に語源をベースに意味を考えるのは参考程度にはよいのだけれど、言葉は恣意的で変化するものだし、今を生きる自分の言語感覚を大事にすべきだと思ってしまう。
一応、私の言語感覚でいうと「学習」は learn で、「研究」は study なんだけど、「勉強」はしっくり来るものが思いつかない。しいて言えば work なのかな?それなら弾さんのいう「勉強」にも通じるものがあるのかもしれない。
ただ私にとって「勉強」は「学習」や「研究」と違うものとして区別するものではなくて、むしろ「学習」や「研究」を含みつつもそれぞれにはない要素も併せ持つ、より広い概念という感覚がある。
だからあえて言うが、まさに人生は「勉強」だと思う。
「勉強」をそういうふうに考えているということを踏まえれば、「勉強ができる=頭がいい」というのは言葉そのままでは正しさがあると思う。それは「学校の勉強ができる=頭がいい」ではないからね。
ちなみに「学校の勉強ができる」のつながりですが、
「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記
それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。
賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。
だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。
この感覚は私もよくわかるんですね。
小学生の時は「勉強」していた記憶は全然ないのだが、テストの点数だけはなぜかよかった。
中学ではさすがに「勉強」はしたけど、それは例の「頭を使わない勉強」だから苦労したという感覚はない。そんな感覚でしかないのに学年1位が普通だった。中学校自体のレベルは低かったと思うけど。
そんな感じで、私も小中学生の時は「頭がいい」と言われ続けていた。
そう言う人たちがどういう感情を伴ってそう言っていたかは知る由もないが、言われた側からすると「普通じゃない」「自分たちとは違う」と仲間外れにされたような疎外感が少なからずあったよね。
高校や大学では「本業」ではない音楽絡みにハマっていたおかげでほとんどなかったんだけど、そういう「普通じゃない」「自分たちとは違う」的な発言は、社会人になってからまた言われるようになった気がするね。ITに関する知識、スキル、発想に関しては、特にそう。業界全体からすれば大したことないはずなのにね。
今や「我が道を行くのが大事」と思っているし「人とは違う個性こそ勝負どころ」だとか思うから、それでへこんだりすることはないけど、自分が拒絶された感じはどうしても残るような気がする。
それでも今では、そんな人自身やそんな人がいる環境は、「つまらない」というのが最も強く思う事になっていますが。
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